ワイン醸造家 ヌツィキ・ビエラさん
差別の壁を乗り越えた南アフリカの女性醸造家 極上のワインで人々を笑顔に
市場の常識を変えるような華々しいプロダクトやサービスが日々メディアに取り上げられる今日。その裏では無数の挑戦や試行錯誤があったはずです。「イノベーター列伝」では、既存市場の競争軸を変える挑戦、新しい習慣を根付かせるような試み、新たなカテゴリーの創出に取り組む「イノベーター」のストーリーに迫ります。今回紹介するのは、南アフリカ初の黒人女性ワイン醸造家、ヌツィキ・ビエラさん。肌の色や性別、言語など、さまざまな壁に風穴を開けて躍進する同氏に、ワイン醸造の魅力とみずからを奮い立たせる方法についてうかがいました。
祖母の愛情を受けて育った幼少期
わたしは、南アフリカ第2の都市ダーバンからから車で2時間半ほど走ったところにある小さな村で育ちました。学校から帰ると、牛を牛舎に連れて帰り、搾乳します。当然、家事も手伝わなければなりません。生活水準だけを見れば貧困な部類に入るかもしれませんが、わたし自身は生活に困窮していたとは感じていませんでした。
確かに、お金が十分にあったわけではなく、母は家族を養うために出稼ぎでほとんど留守にしていました。しかし、祖父母、そしてわたしを含めた8人の兄弟姉妹といっしょに過ごした生活は、愛に満ちあふれたものでした。
祖母はリーダーシップがあり行動力に満ちた女性でした。そんな彼女を間近で見ながら育ったため、“生き抜く力”が育まれたと感じています。常にポジティブな気持ちで物事に対処することを、みずから行動で示してくれたように思います。実は、醸造したワインの「ASLINA(アスリナ)」というブランド名は、祖母の名前に由来しているんです。
祖母との思い出の中でも忘れられないのは、16歳のときに親戚のおじさんが亡くなったときのこと。喪主を務めていた祖母は多忙を極めており、まだ17歳だったわたしが葬儀の実務を任されました。未経験のことばかりでしたが、葬儀会社との折衝や近所からの資金集め、儀式に使うヤギの手配など、葬儀をスムーズに執り行うために奔走しました。
無事に葬儀の段取りを終えたあと、祖母は「あなた1人ですべてやったの?」と驚いていました。本来なら大人が担うべき役割でしたが、祖母が自分を信頼して任せてくれたことがうれしくて、一生懸命だったことを覚えています。
実は先日、バラク・オバマ前米国大統領の妻であるミシェル・オバマ氏の書籍「マイ・ストーリー」の日本語版発売記念イベントで「ASLINA」を振る舞うという大役を任されました。そのような大舞台でも自分の仕事を全うできたのは、祖母がわたしを1人の人間として尊重して育ててくれたおかげだと思っています。
大学の講義で使われる言語が理解できない
わたしのこれまでの人生には、2つのターニングポイントがあります。
1つ目は、高校を卒業してから1年間、街を離れてダーバンで家政婦の仕事をしたことです。祖母はわたしが街に出て家政婦になることに強く反対しました。しかし、当時は大学で化学工学を学びたいと考えており、そのためには学費を稼ぐ必要がありました。最終的には祖母も同意してくれましたが、説得には何日もかかったのを記憶しています。
ダーバンでは、仕事を通じて英語を学ぶことができたことが、自分にとっては大きな財産となりました。しかし、それ以上に大きかったのが、「ワイン醸造学」を学ぶ機会と出会えたことです。家政婦として働いていたとき、ステレンボッシュ大学で「ワイン醸造学」を学ぶ南アフリカ航空の奨学金制度があることを、奨学金のリクルーターが教えてくれたのです。
南アフリカでは「ワインは白人が飲むもの」という習慣が根強く残っており、当時のわたしもワインを飲んだことはありませんでした。しかし、家族に負担をかけずに大学で学べるという魅力にひかれ、すぐに申し込みました。ワインとの出会いは、これがきっかけになります。
2つ目のターニングポイントは、大学での生活です。入学したばかりのころは、言語や文化という大きな壁にぶつかり途方に暮れていました。大学の授業は、原則として南アフリカの公用語の1つであるアフリカーンス語が使われていたんです。アパルトヘイト(人種差別政策)時代から白人言語として使用されてきたアフリカーンス語は、わたしには未知の言語でした。
授業はもちろん、大学の説明資料もすべてアフリカーンス語だったので、何が書かれているのか、教授が何を話しているのか一切わかりませんでした。「このままでは単位が取れない」と思い、すぐに大学に相談してアフリカーンス語のチューターをつけてもらい、言語の勉強をスタートしました。大学の講義、アフリカーンス語の勉強、さらに生活費を稼ぐためにワイナリーでアルバイトを行い、またバレーボール部にも所属していたので、遊ぶ時間はまったくありませんでした。ただし、ワイナリーでワイン醸造の実践的な部分を体験できたことは、ワインづくりのおもしろさや奥深さを知る機会になり、わたしをさらにワイン醸造の道へ引き込んでいきました。
ネガティブな意見に一喜一憂しない
いまでこそ、南アフリカで醸造したワイン「ASLINA」が海外メディアでも紹介され、日本をはじめ各国で販売開始することに成功しましたが、ここに至るまでに、肌の色、性別、言語など、いくつもの壁を乗り越えてきました。実際、南アフリカでは「黒人女性が作ったワインなんて、味は大丈夫なのか?」と言われたこともありました。そうした否定的な意見に立ち向かうその原動力となったのが、祖母の教えである、常にポジティブな気持ちで物事に対処することでした。
多忙な日々を過ごしているのに、周囲の否定的な意見に一喜一憂していたら時間がもったいない。そう考えて、ネガティブな意見ばかり言う人たちとは、できるだけかかわらないようにしています。ただ、目に余る差別に直面したときは、遠慮せずにストレートに怒りの感情をぶつけることにしています(笑)。そんなときでも、ひと通り怒りをぶちまけたあと、ふとわれに返り「だから何?」と自問し、冷静になることを心がけています。感情が高ぶっていると冷静な判断ができなくなるので、重要な判断を下すためにも、できるだけ早く冷静になることが大切だと思います。
ワインづくりには、大きなやりがいを感じています。飲んでくれた人の笑顔は、わたしに最上の喜びを与えてくれます。また、どんなに多忙でも、ワインと向き合う時間をとても大切にしています。
ワインの味や香りは、ブドウの種類やその年の気候、作った土地などによって変化するので、自分でコントロールできないことが多いのです。実は、そこにワイン醸造のおもしろさがあります。
わたしは数種類のブドウ品種を組み合わせたブレンドワインの醸造が得意なのですが、味と香りに同じものはなく、毎年微妙に異なります。思い通りの味と香りを実現するのに苦労する年もあれば、簡単に理想の味と香りを作り出すことができた年もあります。新たな発見の連続なので、飽きることはありません。
2013年に自分のワインを初めて造り、2017年から「ASLINA」の販売を始めました。米国や日本、ガーナなど各国の人々が、わたしが醸造したワインを飲んで笑顔になり、また「ASLINA」が誕生したストーリーに共感してくれる人が多くいることに喜びを感じています。
現在は、海外での成功を聞きつけ、南アフリカ国内でも「ASLINA」を置いてくれるレストランや酒屋が増えつつあります。また、後進を育てるためにNGO団体に理事として参加し、これまで培ってきたワイン醸造の技術を伝承する活動も始めました。人種や性別などさまざまなしがらみにとらわれず、だれでもワイン醸造の道を歩めるようになってほしいです。
これからワイン醸造家を目指す人たちに伝えたいのは、ゴールをしっかり見据えて自分のほんとうの気持ちに耳を傾けること。わたしがワインと出会えたように、心から愛を注げられるものを大切にしてほしいですね。
■プロフィール:ヌツィキ・ビエラ氏
南アフリカ初の黒人女性醸造家。南アフリカ東部のクワズール・ナタール州出身。1999年に南アフリカ航空の奨学金を受けてステレンボッシュ大学でワイン醸造学を学び、2016年にASLINAを創業。「ジャパン・ワイン・チャレンジ2019」で銀賞を受賞したほか、国内外でさまざまな賞を受賞するワインを生み出している。国内では、輸入販売元である株式会社アリスタ・木曽のASLINAオンラインショップ( https://www.aslina.co.jp )で販売されている。