パーソナルトレーナー 千葉啓史氏
選手を世界一に――一人ひとりに愛情を持って接することで信頼を育む
市場の常識を変えるような華々しいプロダクトやサービスが日々メディアに取り上げられる今日。その裏では、無数の挑戦や試行錯誤があったはずです。「イノベーター列伝」では、既存市場の競争軸を変える挑戦、新しい習慣を根付かせるような試み、新たなカテゴリの創出に取り組む「イノベーター」のストーリーに迫ります。今回話を伺ったのは、世界で活躍するプロフリークライマー、野口啓代選手と楢崎智亜選手のパーソナルトレーナーを務める千葉啓史氏。トップアスリートが絶大な信頼を寄せる理由を探るために、同氏の素顔に迫りました。
将来の夢はプロボウラー
実は、小学生のころからプロボウラーになることを夢見ていました。父に連れられてボウリング場に行くうちに、のめり込んでしまったんです。もともと運動は得意だったので、将来は必ずプロボウラーになれると思い込んでいました。
中学生になるころには、すでに父のレベルを越えており、小遣いでプロボウラーのレッスンを受けていました。お年玉もボールの購入に消えてしまい、個人で大会にも出場していました。
高校では部活に入らず、ひたすらボウリングに打ち込みました。授業が終わると、毎日スポーツジムに通ってトレーニングを重ねる一方で、栄養学の本を読みあさり、サプリメントを摂取して筋力アップをはかっていました。そのため、運動部の生徒よりもはるかに筋肉隆々の体になっていました。当然、勉強にはまったく身が入らず、いつもボウリングのことしか頭にありませんでした。学校よりも、ボウリング場やスポーツジムにいる時間のほうが長かったのではないかと思います。
自分としては、「どうせプロボウラーになるのだから大学に進学する必要はない」と考えていましたが、母から「頼むから大学だけは行ってほしい」と頼まれ、高校3年生になってから慌てて受験勉強を始めました。そして入学したのが日本体育大学です。
満を持して受けたプロテストで初めての挫折
大学時代は、スポーツジムでアルバイトをしながら、相変わらずボウリングに明け暮れていました。そして大学3年生のとき、満を持してボウリングのプロテストを受けたんです。しかし、結果は不合格。絶対の自信があったのですが、想像していた以上にレベルが高く、自分はだれよりも努力してきた、自分には才能があると思っていたものが、一気に崩壊しました。
母も「あんなにがんばってきたのに、残念だったね」と言って涙を流していたのですが、それも心の痛みになりました。子どものころからずっと肩肘を張った生き方をしてきましたが、急に惨めな人間になったように感じてしまったんです。すべてを喪失した気分になりました。
プロボウラーになれなかったため、卒業後は就職しなければなりません。プロテストに落ちたことで、現実に引き戻されました。しかし、ボウリングばかりしていたため、単位も大幅に不足しており、このままでは卒業も危うい状態でした。そこで、アルバイトの量を減らして、まずは卒業するために勉強しなければなりませんでした。
そんな状況だったため、周囲の学生のように就職活動に精を出すこともできず、就職できそうなところといえばフィットネスクラブしか思い当たりませんでした。ちょうどアルバイト先のスポーツジムの社員からの誘いもあり、そこに就職することを考えていました。ほぼ毎日アルバイトしていたうえに、トレーニングに関する書籍や論文をむさぼるように読んでいたので、即戦力になれる自信もありました。新卒社員に対して研修できるぐらいの基礎知識はあったかもしれません(笑)。
自己中心的なインストラクターからの脱皮
アルバイトから社員への採用面接を受けた結果、無事に内定をいただき、スポーツインストラクターとして就職することができました。プロボウラーになれなかったことで自信を喪失していただけに、久しぶりに人に認めらたような気がして、うれしかったことを覚えています。
しかし、その後の自分をいま思い返すと、とんでもないインストラクターだったように思います。インストラクターというのは、本来はお客様のために適切なスポーツ指導を行わなければなりません。ところが、「お客様のため」という考えは毛頭なく、ただ「オレ、すげえだろ」というスタイルでした。「オレの指導どおりにすれば、やせるし筋肉もつくよ」という自己満足をお客様に強要するだけのインストラクターだったのです。そんなわたしを信頼してくれるお客様もいましたが、毛嫌いするお客様も多かったはずです。
しかし、4年目にサブマネージャーに昇進したことで、考えが変わり始めました。スタッフを管理・育成しないと評価されなくなったからです。どうせなら、自分が採用面接を担当したアルバイトのスタッフを一人前にしたい、自分が所属する店舗を全国でいちばん活気のあるジムにしたいという思いが芽生えました。
そこで初めて人を動かすことの難しさを学び、リーダーシップやチームワークというものに興味を持つようになりました。結局、3年間ほどリーダーを務めたのですが、そこでの経験は大きかったと思います。なお、そのときに採用したアルバイトのスタッフの何名かは、わたしと同じようなパーソナルトレーナーや理学療法士、ヨガトレーナーなどになり、現在も交友が続いています。スポーツを通じて人の役に立つ仕事の意義を理解し、その仕事をいまも続けていることはうれしいかぎりです。
リーマン・ショックを機にフリーランスとして独立
2008年にリーマン・ショックが起こると、社会全体の景気が悪化し、スポーツジムの運営会社も戦略を見直す方針を打ち出しました。スタッフの人数を減らしたり、インストラクターの動画を見ながらエクササイズができるようにしたりすることで運営費を削減し、難局を乗り越えようとしたのです。そのとき、わたしは28歳だったのですが、30歳までにフリーランスのスポーツインストラクターになりたいという思いもあったので、これを機に退職しました。
ちょうどそのころ、クライミングに夢中になっており、プライベートの時間にクライミングジムに通っていました。その縁で、フリーになって最初の約3年間は、そのジムの2階を借りてパーソナルトレーナー活動をさせてもらいました。最初は仕事もなく苦しい日々を過ごしていましたが、幸いなことに交友関係に恵まれており、仕事を紹介してくれる方がいたおかげで、少しずつパーソナルトレーナーとして活動できるようになりました。
その中で出会ったのが、プロフリークライマーとして世界で活躍していた野口啓代選手です。世界レベルの選手のパーソナルトレーナーを担当することは自分にとって大きなチャンスであり、逃げるわけにはいかないと思いました。
野口選手のパーソナルトレーナーを始めてまず最初に気づいたことは、彼女の人間としての「格の高さ」でした。クライミングがマイナー競技だったころから10代にして1人で世界に挑戦し、頂点を目指し続けている。そして、正式種目となる2020年の東京五輪でのメダル獲得を目指して日々努力している。そんな野口選手は、自分より7つも年下なのに、はるか年上の人物であるかのような品格を持っていました。
正直、当時のわたしは、野口選手のパーソナルトレーナーを務められるレベルの人間ではありませんでした。野口選手が大会で好成績を残しても自分のサポートがあったからとは思えず、貢献できているという感覚はありませんでした。彼女からも信頼されていない、そう感じていました。とにかく、わたしにはこの仕事が重荷だったのです。
「ほんとうは何をやりたいの?」の一言が自分を変えた
ある日、2人で食事をしていたとき、野口選手が尋ねました。「千葉さんは、ほんとうは何をやりたいの?」。お互いに信頼関係で結ばれているわけではなく、どうすれば改善できるのかもわからない状況だったので、きちんと回答することができませんでした。おそらく、野口選手も不安だったのでしょう。
その一言で、何とかして野口選手の役に立ちたいという思いが強くなりました。書籍や論文で最新の運動理論を学ぶだけでなく、自分自身の体を細部まで観察して、できなかった動きのパターンをできるようにするには体をどのように動かせばよいのかを徹底的に検証しました。
また、周囲の意見も参考にするようになりました。一時期、野口選手が思うような成績が残せない時期がありました。自分の指導どおりにトレーニングしないからではないかと思っていたのですが、スポーツメンタルコーチの知人に相談したところ、自分が原因になっていることがわかりました。わたしの接し方が野口選手を苦しめてしまっていたのです。自分自身が変わらなければならない。自分を犠牲にして人のために努力したのは、これが初めてでした。
しばらくすると、野口選手が、同じくプロフリークライマーの楢崎智亜選手を紹介してくれました。「類まれな素質があるのになぜか勝てない選手がいるから、パーソナルトレーナーをお願いできないか」という相談でした。初めて楢崎選手に会ったとき、「かつての自分に似ているところがあるな」と感じました。自信満々なのに、メンタル面で何かが致命的に欠けている。運動能力はずば抜けていて信じられないパフォーマンスをするのに、試合になると思うような結果が出ない。
そこで、彼と腹を割って話し合いました。「試合で勝つには、自分の長所を伸ばすだけでなく、短所をなくすことが必要だ」と説明し、メンタル面も含めてトレーニングしていきました。3か月後、それまで国内大会ですら優勝できなかったのに、ワールドカップで優勝してしまったんです。弟のようにかわいがっていた楢崎選手が優勝したことで、ようやく野口選手が自分のことを認めてくれたような気がしました。
未来のことは考えず、毎日を懸命に生きていく
野口選手と楢崎選手は、まったくタイプの異なる選手です。繊細な重心移動を得意とする野口選手に対して、楢崎選手はダイナミックな体重移動を得意とします。当然、体の動かし方も異なります。また、パーソナルトレーナーに対して求めていることも、それぞれ異なります。この2人を通じて、パーソナルトレーナーは自分のやり方で接していてはだめなんだということを学びました。「あたりまえのことじゃないか」と笑われるかもしれませんが、わたしはそれに気づくまでずいぶん時間がかかってしまいました。
実際、2人に同じエクササイズメニューを課すと、まったく違う答えが返ってくることがよくあります。一方は「良いトレーニングだった」と言っても、もう一方は「あまり効果がないのでは」という反応です。こうして、それぞれに適した接し方を続けた結果、2018年7月に盛岡で行われたジャパンカップでは、野口選手と楢崎選手が揃って優勝を飾ることができました。
わたしは、先々まで計画したり、未来を描いたりすることが、あまり好きではありません。例えば、20歳のときに30歳になった自分をイメージしても、限界があるはずです。結局、いまの自分がイメージできるものでしかないと思うんです。野口選手や楢崎選手は、おそらく1週間後のことも決めていないのではないでしょうか。ただ、毎日を一生懸命に生きている。この2人のように成長スピードが速い人は、毎日未来のイメージを更新し続けている。計画どおりに生きるのではなく、最大速度で成長するには、いまをどう生きるかを考え、直感を信じて行動するのだろうと思います。
わたしも、自分自身に新しいテーマを課して、できなかった動きのパターンをできるようにするとか、ただ練習していくことを大事にしています。体のことを知るためには、まず自分の体を自分で観察することが不可欠です。そうして編み出したのが、“チバトレ”と呼ばれるトレーニング方法です。遊びながら運動感覚を身に付けることができる新しい体幹エクササイズです。
それを人に伝える技術はまた別物です。最も大切なことは、「愛情」を持って接することができるかどうかです。わたしは、選手のことを、家族や自分以上に大切な人だと思って接することを心がけています。どうしたらこの選手を幸せにできるのかを第一に考えて日々アクションするというのが、わたしのパーソナルトレーナーとしての現在のスタイルです。
■プロフィール:千葉啓史(ちば・ひろし)
1982年10月生まれ。日本体育大学卒業。
大手フィットネスクラブのトレーナーを経て、28歳でフリーのパーソナルトレーナーとして独立。23歳からクライミングを始める。外岩のボルダー最高グレードは四段。野口啓代、楢崎智亜、楢崎明智をはじめトップクライマーを多数指導。プロボウラーも藤井信人、浅田梨奈など第1シードプロを10名以上サポートしてきた。プロボクサー、プロスキーヤー、プロダンサーなどアスリートの身体操作指導が専門。全国各地で年間100本以上「チバトレ講習会」を開催し、受講者は毎年2000人以上。2017年より東京・表参道にチバトレスタジオ「ReNew表参道」をオープン。新規クライアントは、半年前から取れない状況になっている。